2007/02/08

ドイツから友だち

ドイツから友だちが帰国していて、小田原に来るというので行ってみた。盛岡の大学の寮でいっしょだったやつだ。

いまはフライブルクに住んでいて、環境ジャーナリストみたいなことをしており、ときおり帰ってきては講演している。今回は、ゲルスブルク村の村長さんの通訳として来日。

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寮にいた頃は、ほんとバカばっかりしてたし、バカだった。
で、お互い「おまえバカだな~」とよく言い合っていたものだ。
でも、バカだな、と笑って言い合えるほど、仲がいいものはないとぼくは思っているよ。

あの頃、想像できたかい? なんて思う。
君がドイツ語ペラペラになってドイツに住んでいて、ぼくが本を出しているなんてさ。

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2007/01/14

「盛岡学」vol.2

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今号では「盛岡文士劇」が紹介されています。
高橋克彦さん、浅田次郎さん、井沢元彦さん、内館牧子さん、北方謙三さん、斎藤純さんなどなどが、懐かしき盛岡劇場の舞台を踏んでいるなんて。
あそこでは、かつて、劇にあわせて三味線を弾いたことがありました。

およそ一年前、このブログで『盛岡学』で短編を書きたい、と書いたら本当に依頼が来た。
ありがとうございます。。

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2005/11/29

二度泣き橋

 盛岡駅を出て、街中を目指すと先ず渡るのが開運橋。北上川にかかっている。

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 この開運橋は二度泣き橋と呼ばれるそうだ。転勤などで首都圏から盛岡にやってきた人が、なんて遠くまでやって来てしまったんだろう、と橋で立ち止まって泣く。しかし、数年後、再び転勤で盛岡を離れるにあたって、盛岡の人たちの温かさや美しい街並み、それから、雄大な岩手山などから離れがたくて、橋の上で再び泣いてしまう。

 開運橋から北を見て。残念ながら曇っていて岩手山が見えない。
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 思えば、ぼくも泣いたもんだ。
 高校生のときに、
「そうか。ぼくは小説家になるんだ」
 と天啓を受けちまったので、大学は東京に行くしかないと思った(この思い込みが若さ)。なのに、人生初めて直面する大人の事情で、泣く泣く岩手の大学へ。

 でも、結局小説家になれた。なれることを疑っていなかった(これは若さというより、怠惰と紙一重のぼくの美質。たぶん……)。なろうと思ったきっかけは、ある小説家さんの書いたエッセイより。で、その方が29歳でデビューしていたので、ぼくも29歳でなれると思い込んだ。小沢征爾さんも、
「10年好きなことを続けていれば夢はかなう」
 と言っていたし。
 実際に19歳くらいから文章はダラダラと書いていた。小説の形にはなっていなかった。大学院にも行った。就職活動はうまくいかんかった。たしか、一般企業と公務員合わせて40~50くらい落ちている。わはは。社会不適応者とよく言われた。けど、怠惰なぼくはなんとかしようとせずに、ただただ書いていた。

 いろいろあったが一念発起して公募に。そして、受賞の電話をもらったのが30歳の誕生日の前日。本当に10年やったらなんとかなっていた。ぎりぎり29歳だった。

 ときどき思う。望んでいた東京の私大に行っていたら小説家になっていなかったかもしれない。二度泣くという経験をしなかったら、なれんかった気がする。うまく説明できないんだけれどさ。


 

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2005/11/23

「盛岡学」

 「盛岡学」の創刊号を読みました。中津川沿いの喫茶ふかくさが表紙になっている。

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 この前の受賞式で会った熊谷さんや、ぼくが盛岡に住んでいたころけっこう家が近かったはずの高橋克彦さんの名前が。『エリ・エリ』で小松左京賞を獲った平谷美樹さんが短編小説を書いている。

 それから、盛岡冷麺で有名な、ぴょんぴょん舎の邉さんによるエッセイも。邉さんはぼくのことをまだ覚えているだろうか。うーん、忘れているだろうなあ。そして、志賀かう子さんが斎藤純さんと対談。志賀かう子さんの『祖母、わたしの明治』という本が面白くてですねえ。

 つまり、なにが言いたいかというと、第何号になってもいいから、ぼくも短編を書かせてくれないかなー、なんて。

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2005/08/26

大学時代 

 大学時代は盛岡でした。。んで、三味線を弾いてました。こんな部室で。

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 洗心亭という名前です。植物園の中にありました。もともとは守衛さんの家だったのかな。畳敷きです。とにかく古くて、部に残る1960年代の写真にはすでに映っていました。

 冬はこんなことになります。隙間風で体が凍ります。実は、洗心亭は老朽化が進んで取り壊されました。ぼくが卒業したあとに。

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 次は洗心亭を出ての景色。105-0537_IMG

 奥に見える建物は、これ。

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 盛岡高等農林学校です。宮沢賢治が大正4年から9年まで、本科生及び研究生として在籍していたそうな。次は、夏の画像。

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 校内には牛も馬も羊も山羊もキツネもタヌキもリスもと動物だらけ。文芸部なんてのもなく、同好会さえなく、ただただ三味線弾いてたなあ。

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