盛岡駅を出て、街中を目指すと先ず渡るのが開運橋。北上川にかかっている。

この開運橋は二度泣き橋と呼ばれるそうだ。転勤などで首都圏から盛岡にやってきた人が、なんて遠くまでやって来てしまったんだろう、と橋で立ち止まって泣く。しかし、数年後、再び転勤で盛岡を離れるにあたって、盛岡の人たちの温かさや美しい街並み、それから、雄大な岩手山などから離れがたくて、橋の上で再び泣いてしまう。
開運橋から北を見て。残念ながら曇っていて岩手山が見えない。

思えば、ぼくも泣いたもんだ。
高校生のときに、
「そうか。ぼくは小説家になるんだ」
と天啓を受けちまったので、大学は東京に行くしかないと思った(この思い込みが若さ)。なのに、人生初めて直面する大人の事情で、泣く泣く岩手の大学へ。
でも、結局小説家になれた。なれることを疑っていなかった(これは若さというより、怠惰と紙一重のぼくの美質。たぶん……)。なろうと思ったきっかけは、ある小説家さんの書いたエッセイより。で、その方が29歳でデビューしていたので、ぼくも29歳でなれると思い込んだ。小沢征爾さんも、
「10年好きなことを続けていれば夢はかなう」
と言っていたし。
実際に19歳くらいから文章はダラダラと書いていた。小説の形にはなっていなかった。大学院にも行った。就職活動はうまくいかんかった。たしか、一般企業と公務員合わせて40~50くらい落ちている。わはは。社会不適応者とよく言われた。けど、怠惰なぼくはなんとかしようとせずに、ただただ書いていた。
いろいろあったが一念発起して公募に。そして、受賞の電話をもらったのが30歳の誕生日の前日。本当に10年やったらなんとかなっていた。ぎりぎり29歳だった。
ときどき思う。望んでいた東京の私大に行っていたら小説家になっていなかったかもしれない。二度泣くという経験をしなかったら、なれんかった気がする。うまく説明できないんだけれどさ。
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