三沢が亡くなってかなり落ち込んだのだが、さらにみちのくプロレスでレフェリングをされていたテッドさんまで、逝ってしまった。
盛岡を拠点としたみちのくプロレスが旗揚げしたのは、ぼくが岩手で大学生活を送っていたちょうどその頃。
東北をサーキットするルチャベースの弱小団体としてかなりユニークな存在で、そこでレフェリーをしていたのがテッドさんだった。
ひとつのプロレス団体が、ぐっとのし上がっていくとき、そこにはいつも青春期を迎えるレスラーたちの姿がある。
レスラーがいちばん脂の乗る時期というのは35歳くらいなので、青春期と言っても20~30歳くらいとなるのだが。
たとえば、四天王時代の全日本プロレス。第二次UWFもそうだ。
目指す理想のプロレスをその身をもって表すのが楽しくてしかたがない。
そんな年齢なのかもしれない。
ぼくが盛岡で観ていたみちのくプロレスも、ちょうどそういった時期だった。
野球でいうところのメジャーリーグみたいなものとして、プロレスにおいてはアメリカに世界最大のプロレス団体WWEがある。
年商600億を越す、世界最大の団体だ。
そこからみちのくプロレスは声をかけられ、都合五人ものレスラーを送り込むこととなった。
日本のほかのメジャー団体には、誰ひとりとして声がかかっていないというのに。
みちのくプロレスでは、レスラーがノンストップで動きまくるハイスパートレスリングがあった。
それまでのゆったりとした間合いのプロレスとはまったくちがうもの。
そこにWWEは目をつけたのかもしれない。
現在、日本のどの団体でも、海外でも、ハイスパートレスリングは見られる。
もはやハイスパートと銘打つこともないくらいに普及した。
いまにして思えばぼくは盛岡で、世界最先端のレスリングを観ていたのだ。
そして、そこにはいつもテッドさんがいた。

先日、弟くんと後楽園の興行に行ってきた。追悼セレモニーではみんな泣いていた。
レスラーたちはテッドさんのために、激しく闘っていたよ。
スペシャルゲストにはスーパースター、ウルティモ・ドラゴン!


この三人が同じコーナーに立つとは。

タイガーマスクもいる。

D東郷はグッドシェイプをキープ。

いまや社長となった人生が、

コーナートップで拝み、

フロム・コーナー・トゥ・コーナー。6.5メートルほどのロングダイブ!
メインはサスケ。

いつもの捨て身の攻撃。トップロープ越えのトペ・スイシーダ。

スイシーダとはよく言ったもので。
しかしながら、敗北。

石川カメラマンもいる。
これからは、みちのくプロレスも若返りの時期なんだろうか。

ぼくはプロレスが好き。
リアルじゃないと言う人もいるけど。
でも、想像力を使って楽しみたい。
ドキュメンタリーで泣くのもいいけど、リアルよりもリアリティー。
今週の「週刊プロレス」にテッドさんの言葉が載っていた。
一時期、みちのくプロレスと険悪になり、社長の人生と試合をして決着をつけるといういかにもプロレス的解決法で白黒をつけたあとの言葉だ。
「人間の恨みつらみなんて墓場まで持っていけねえんだよ。
これ、ずっと続けるのってすんごいパワーがいるんだよな。
俺は持続できなくていいからよ。俺はみちのくのレフェリーができるように戻る。
もちろん、どこでもやるよ。やるけどここがいちばん好きだもん。
だから言っただろ、みちのくの生え抜きをもっと育てりゃいいんだよ。
俺が生きているうちになんとかしろよ。俺はいくらでも育てるぜ。
もう俺、あと一年二年したら消えちゃうんだぜ、たぶん。
消えるまえに使えよ」
レスラーたちのために雑務は全部自分でやったテッドさん。
心臓を患っているのにワーカホリックなところがあって給食の配達までやっていた。
これは2007年の言葉だそうだ。
言葉通り、消えてしまった。
みちのくプロレスが大好きだったんだな、テッドさん。
この気概、尊敬します。
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